昭和五十七年二月十一日 朝の御理解

x 御神訓 「神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさ。」


 信心の道といい真の道といい、その信心の道をわからせてもらう、真の生き方をわからせてもらう、とどういう事になるのか。お互い信心させて頂いて日々真の教えを頂いておるが、どのように自分がおかげ頂いていっておるか、変っていっておるか、という事を思ってみなきゃならんと思うですね。信心しておっても神様の目から御覧に、御縁を頂いておっても真の道も求めようとしない、ね。信心とは、ね、只おかげを頂く事だ、という位しか考えていない、というならばやはり哀れである。いわゆる信心の道を体得する。いよいよ真から真を追求していく。いわゆる昨日の朝の御理解、ですよね。いわゆる真実一路である。
 限りない道の精進というものがありがたいのであり楽しいのであり、しかもそこに生まれてくる心の安らぎ、安心、喜び、その安心の度合とか、喜びの度合というものを思うてみて、本当に信心頂いておる者のもう有難さ、をいよいよわからなきゃいけません。私は第一信心の道を体得していく、いわゆる真の追求をさして頂いておると一喜一憂がなくなってくるですね。もうちょっとした事に有頂天になって喜ぶかと思うと、ちょっとした事にもう意気消沈してしまう。そういうような事がなくなってくる。ね。
 勿論それは神様のお働きというか神願の現れというか、全ての事か神願成就の為の現れである、と見るのですから、ね。どんな場合であっても有頂天になる事もなからなければ、というて意気消沈する事もない。まあいうならばいつも平常心でおれる、という事、ね。ちょっ自分に都合のよか時にはもう有頂天になって喜ぶ、ちょっと自分に部が悪いとなったら心が沈んでしまう、といったような間はまあだ真の道も信心の道も本当に極めていっておる人とは言えないですね。
 今日は商売が繁盛した、と言えば喜ぶ、反対に損したら、ち言うたら、ね、くうっとする、と。これでは信心の道を、ね、いわゆる稽古しておる者とは言えません。真の道を追求しておる者とは言えない。ね。自分自身の心の、いうならば、心は信心の定規じゃによってと言われるのですから、私はそういう時に自分の信心がどれ位進んでいっておるのか、頂いていっておるのか、という事をわかるよしなともしていく事が必要じゃないか、とこう思う。何かに直面した時に自分の心が動揺しない、有頂天にならない、意気消沈しない、いつも平常心である。神様のお働きに間違いはない。神願が成就していっておるのだ、とわからしてもろうたら、ね。いわゆる一喜一憂がない、という事です。
 昨日、吉井の熊谷さんがここでお届けされました。昨日、東京に一人息子さんがおられます。嫁から電話がかかってきた、というのです。というのは今度、則郎さん、て立派な息子さんですが今度九州の方へ転勤になられる、とほいでお母さんにあんまり早速知らすっと、もう待ち根気するといかんからね。もうギリギリになって知らせよ、とお父さんから言われておりましたけれども、やっぱりちょっとお知らせせんといけませんから、というて嫁が知らせて来た、というのである。ね。
 息子も嫁も、自分が九州に帰ってくる、近くに住んでくれる、という事だけで、親がまあ、大変喜ぶ、と思ってるわけです。それからというて熊谷さんが冷たい冷淡な方でも何でもないわけです、ね。というて、んなら東京に転勤になられた時でも、そりゃあもう本当にあのひろい家に一人で住まわんならん。もう息子達について行こごたる、といったような事は全然なかった、という事です。いやあ私が事は心配いらんばの、というて東京にやられたんです。そいけんで、というて今度九州に帰ってくる、転勤になる、というてまあ息子達夫婦は、まう自分が親の近くに帰って来られる事を親が喜ぶに違いはない。
 またあんまり早速しらせて待ちながら、さしちゃならんからまあ、ギリギリになって通知せろ、というけれども嫁御はいっときでも早、喜んでもらいたい、と思うて電話をかけてきた、というのです。ところが私の心が動きません、というのです。ほりゃ沢山お子さんはおられますけども息子さんは一人ですもん、ね。しかも立派な息子さん、もう側におって嬉しくない、という事はないでしょうけれども。私はいつの場合でも熊谷さんの場合は、ね。神願がそのようにして成就していっておるんだ、という事を確信しておられるからだと思うですね。
 東京行であろうが東京から九州に帰ってこようが、もう御神意のまにまにの事であるからその事がさほど嬉しいとか喜ばしいとか、ま、遠方に行くからがっかりする、といっような事がさらさらない。これは私は、あのう熊谷さんの信心を見ておりますと確かにそのようですね。勿論より以上の信心の喜びというか、有難いものを身につけていっておられるからである、と思いますけれども、ね。自分の信心がどの程度の信心を頂いておるか、と、ね。成程信心を頂いておれば、ね。本当にそれは広大なおかげを受ける事が出来るんですけれども、ただそういう広大なおかげを受ける、という事だけではなくて、その信心を頂く、という事です。ね。
 昨日のお月次祭にも申しましたように、福岡の、高砂商会なんか、ね。副社長とお店の方が三人昨日一昨日の事故の飛行機に乗っておられた。しかも前の方に席を取っておられたんだけれども何か、知った人が後の方におられたから、なら私共もそっちさん行こう、というて後の方へ三人移られた。前の方に乗っとった人達はもう全部亡くなっとった。もう考えただけで本当…ね。先達てから、秋永先生のお導きで参ってくる方なんです。それもまあお伺い事とかお願いがある時だけ位なお参りですけども。
 先日あちらへ行かれたら、金秀さん、ち言いよったです。私、合楽へお参りしてお願いをすると右と願うと左になり左と願うと右になるが、これは私に神様の期待があるとじゃろか、という話をしたんです。ね。そん、たいした事、ただおかげおかげで参ってきよるようだけども、少しは信心がわかろうとしますような感じがしますですね。それでもやっぱ参ってくるんです。『色んなお願いの時には必ず参って、したら昨日、秋永先生がその事をお届けされた時に、昨日聞いて頂いたように、z「どんより曇った天の川を頂いて、ね。そしてそこに西瓜が一つポカンと浮いている所」を頂いた。』ははあ、それこそあまやの星ぐらいしか参っては来んのだけれども、ね。神様がこういう大変な、いうならば大難がかかって来ようとする前に修行を、西瓜という事は、修行をさせておられたなあ、と感じる、という話を昨日致しましたね、ね。
 神様が、私共が縁を頂いておる、というだけでおかげを下さろうとする様々な働きがある。頼んどったばってん思うようにならじゃった、というじゃなくて、こりゃ自分に神様の願いが、自分位な信心でもかけられとるとじゃろか、と思う、という事です。信心しておって、です。御取次を頂いてですよ。起きてくる事全て、それは右、左は別としておかげなんです。だからそれをおかげとわからしてもらえれる、という信心です、ね。
 [月雪をなさけ重ねて敷き松葉]、でしたかね。月雪をなさけ重ねて敷き松葉、ね。それこそ月の、昨日私それをまあ私流に解釈して、月の無情、ね。雪の清浄感。もうそれこそもう真、白い雪景色の中にお月様がこうこうと照っておられる、下はもうそれこそ見事に行き届いた茶庭かなんかでしょうねえ。お庭にこう敷き松葉がしてある。そういうその三者一体というか、お月様、そして真、白い雪、そすと敷き松葉の情景、この三つがもう何とも言えん情景、情感をまあ句にしたのでございましょうね。私はそういう情感に浸っておられる日々が私は出来る信心。
 はああいつは冷たい。あの人は無情な、と、もう無情とも思われるような中にあってもです、ね。敷き松葉というのは、ま、合楽に御縁を頂いておるという意味だと申しましたね。ここでは松の信心と言われますから、そこにたとえ雪が降ろうが月の無情さをそこに感じようが、それが何とも言えん情感。私はあの、熊谷さんの機能お届けの中から、そういうものを感じましたね。どんな場合であっても、そこにひとつの情緒というものがある。信心の情緒というものがある。
 そこには一喜もなからなければ一憂もない。いつもが有難いのである。それは一切が神願の中にあるのだ、神願の現れ、と頂き切っておられるところに、です。そりゃあ長年東京に行っとる息子が九州に帰ってくるように、と。これは親の情として思うけれども、もう熊谷さんの場合は、ね。それこそ冷たいまでに情を使うておられない、ね。東京行の時だって困った、という事でもなかった、ね。私もついて行こごたる、とも言われなかった。というてならこちらへ帰ってくるから、というてなら嫁やら息子達の方が喜びよるわけ、親の側に帰って来れるから。
 だから親はもっと喜びよるやろう、と思うてまあ、の、心使いの嫁の昨日の電話であったであろうけれども、実は私の心は少しも動きません、とこう言われる。素晴らしいでしょう。ちょっと自分の都合がよかごたっとは有頂天になって喜ぶ、反対になったらもうくうっとする、といったようなものではない。私は信心の道とか、真の道とか、と今日言ってられるが、そういう本当の信心の道を体得し、真の道を追求していって本当の事からより本当の事がわかっていく事になると、確かに人間は、ね。一喜一憂がなくなってくるです。
 それは人間の、いうなら最大の悲しみに直面してもそれが悲しい、という事じゃないです。それは私自身色々体験させて頂いてそれを感じますですね。はい。だから自分の信心の、は、心の定規、と言われるのですから、色んな時に自分の信心がどの程度に進んでいっておるか、という事を極めながら、私は信心を進めていかんと何年経ったっちゃ同じ事、であっては、これはまあいうならば、折角の信心させて頂いておってこんな馬鹿らしい事はない。本気で、いうなら真から真の追求であるところの信心を身につけたい、という願いに代えられなければいけない、と思う。
 真の道も信心も知らぬ人の哀れさ、とこう言われるが、ね。信心頂いておっても、ね。例えばそこに信心のない者も同じような事であればかえってその、哀れさは増すような感じが致します。ね。信心頂いておって、日頃の信心はどこに置いたの、と言われねばならんような事では、ね。お互いの信心を、言わばテストしてみる、というかね。様々な時に自分の信心を、いわゆる計ってみる。そしておかげを頂いて、こういう時にでも心が動揺しない。こういう時でも一喜一憂せんですむ自分、という者がいよいよ有難くなっていくような信心を身につけたい、と思うですね。どうぞ